日輪聖人

池上・比企両山三世、幼名は亀王麻呂、長じて治部公、大経阿闍梨とよばれる。朗門九鳳の一人。

 

文永九年(一二七二)に下総国葛飾郡風早庄平賀郷、いまの輪像院(もとは妙泉院と称す)の地で生れた。

 

父は平賀忠晴、母は千葉氏の女で、その間に二男一女あり、経一麻呂(日像)と日輪、妙恩日如尼(遠州妙恩寺祖)であると伝える。

 

経一麻呂は文永一二年二月一二日に七歳で日朗の門に入り、身延にのぼって聖人に仕えた。

 

翌建治二年の春、五歳になった弟の亀王麻呂は父と身延の聖人を訪ね、兄の給仕にはげむ姿をみて出家を志したという。

 

弘安七年(一二八四)四月八日に経一麻呂が平賀の日朗のもとで剃髪得度の式を挙げた。

 

同席した亀王麻呂はこれに感激し、父母に乞うて同日日朗の門に投じた。

 

聖人に帝都弘通を委ねられた兄日像のたゆまぬ行学二道精進の姿をみて、兄に負けぬ昼夜常精進の毎日を送った。

 

同門の年長者大円阿闍梨日伝の指南をうけ、学問もとみにすすみ、文保二年(一三一八)日朗から両山の貫首職を付与された。

 

朗門九鳳とよばれる俊秀のなかで、最年少の日輪が後継者の指名をうけたことは、日朗と俗縁があったとする説や、名門平賀氏の出自ということにもよろうが、なによりも智行兼備の名僧に成長していたからであろう。

 

両山の貫首になってからも、学問の研鑽はもちろん、門下真俗の教導に大きな足跡を残した。

 

文保二年(一三一八)に、日朗が池上の南窪の地に草庵を建てて隠居、翌々年の元応二年(一三二〇)一月二一日に遷化した。

 

日輪は比企谷にあって、文字通り朗門の頭領として、その責務は重かつ大となったことであろう。

 

日朗の六七日忌に当る三月二日、京都の日像に遺骨を分与することになり、その際、門下の輪・善・典・範・印・澄・行・朗慶の八師が今後一味同心して本所遺跡を守り、法門弘通をはかるための連署の誡状を認めて異心なきことを誓った。

 

聖人滅後ようやくこの頃に至って、門下の分派活動が目立ってきた時期だけに、この誡状のもつ意味は大きい。

 

この誡状からわずか一年八ヵ月後、連署者の一人日印が両山を離れ、自坊鎌倉本勝寺(貞和元年に京都に移し、本国寺となる)で聖人の会式を別修した。

 

この事件は比企谷に住む上殿(あるいは日輪の母か)が日印の甘言にのり、聖人から日朗に伝来した聖教などを与え、自身も本勝寺の会式に臨んだことに端を発する。

 

のちに上殿がこの行動の非を悟り、後悔するが日印は袂別した。日輪と朗門一派にとって、まことに辛い事件であった。

 

京都開教の遺嘱を実現した兄日像との交流は、常に絶えることなく続けられた。

 

いま京都妙顕寺に遺る一七通の日輪消息がその間の事情を物語る。そのうちとくに建武元年(一三三四)四月十日に、妙顕寺が後醍醐天皇から勅願寺の編旨をうけたときの賀状に「当宗の為悦」と祝意を表していることが注目されよう。

 

日像の滅後も、その後継者である妙実と道交を重ね、九通の消息を残している。

 

これらの消息から観応三年(一三五二)一月二一日に日朗の三十三回忌の法要を比企谷で行ったことなどがわかり興味深い。

 

とくに延文四年(一三五九)二月九日の消息には妙実の祈雨が功を奏して、後光厳天皇が聖人に大菩薩号を、日朗と日像に菩薩号を追贈された慶事を「当宗の本望これに過ぎず候」と、帝都における本宗の活躍を、宗門的立場から祝賀している点も特筆されよう。

 

この年の四月四日、八八歳の高齢をもって比企谷で遷化。この間大磯妙輪寺、木更津光明寺などを開創した。

 

 

《『本化別頭仏祖統紀』、立正大学日蓮教学研究所『日蓮教団全史上』、石川存静『池上本門寺史管見』、『妙顕寺文書』、影山堯雄『大経阿闍梨日輪上人』》

八十六歳の日輪聖人が、妙輪寺第二世日向聖人へ授与した本尊である。

妙輪寺はこの前年に日輪聖人が真言僧であった日向聖人を教化して開創したと伝えられている。

日向聖人に授与されたこの本尊は、実質的に日輪聖人が妙輪寺の常住本尊として染筆したものと推測され、妙輪寺の開創を裏付ける重要な資料でもある。

この本尊に勧請されている諸尊は、日蓮聖人・日輪聖人を勧請しない大坊本行寺蔵本尊と同一である。

日輪聖人は生涯の中で四十八ヶ寺に及ぶ寺院を開創したと伝えられるが、日輪聖人開創の寺院で日輪聖人の本尊を伝えているのは妙輪寺が唯一である。